織姫と彦星が年に一度、天の川を渡って出会う日が7月7日の七夕です。ちなみに、織姫というと漫画『BLEACH』の井上織姫を連想してしまいます。今度公開される実写映画では真野恵里菜がやるそうで、ちょっとイメージが違うような気がしますが。真野恵里菜は好き何ですけどね。
さて、七夕は元々は中国の伝説から発祥したものと言われていますが、日本も独自の風習になってもいる部分もあるようです。
ここでは七夕について調べてみたいと思います。
七夕は井戸の掃除をする日でもあった?
よく知られた一般的な七夕の話題に触れる前に、ちょっと変わった過去の風習について触れておきましょう。
七夕は古くからありますが、江戸時代の人々にとっては七夕自体は大事な行事というわけではなかったようです。それよりも、年に一度、みんなで井戸から水を汲み出して、井戸の中を掃除する日ということの方が大切だったようです。「井戸替え」または「井戸さらえ」と呼ばれていました。
井戸というと自然の地下水が湧いて出たものと思いがちですけど、江戸の井戸水は水道の水でした。
歴史に詳しい人は知ってる人も多いと思いますが、江戸時代は水道網が整備されていました。多摩川を水源とする玉川上水と、井の頭池を水源とする神田上水からの水道網があり、木や石で作られた樋を通して町中に水が運ばれていました。
地下水を汲みあげる井戸とは違って、江戸の井戸は深くはなく、掃除の時は滑車や桶などを使って水を汲み出して中に入り、井戸の壁面を洗ったり、中に落ちて溜まっているゴミや泥を取り除きました。掃除が終わると神様にお供えをして祝酒が振舞われ、年長者が胴上げされるといった風習があったようです。
この井戸の掃除は水位が高いと出来ないので、水位の低い雨の少ない時期に行われます。梅雨時は避けられ、また寒い時期も作業が出来ないので冬は避けられました。
そこで7月7日の七夕の時期が選ばれたようです。ただ、この7月7日は現在だとまだ梅雨にかかっていることもあるので不思議に感じることもあると思いますが、当時は旧暦なのでお盆の前の時期くらいのことをさします。
こういった習慣もかつては夏の風物詩でしたが、現代では井戸が無くなって見られなくなりました。この話が出てくるのは歌舞伎や落語の中で見られるくらいですかね。
七夕の由来と意味
七夕が井戸の清掃をする日だったとは思ってもみませんでしたが、そんな風習が今でも残ってるところってあるのでしょうかね。井戸自体が少ないから残っては無いのかな?
今度は七夕そのものの由来や意味について調べてみたいと思います。
中国の伝説・七夕の起源
七夕の起源は中国の伝説が発祥と言われています。天の川をはさんで引き裂かれた織姫と彦星が、年に1回、7月7日の夜に天の川を渡って会うことを許されたという話に由来しています。ちなみに、織姫と彦星とされる星はベガとアルタイルを指します。
では、なぜ織姫と彦星は隔てられることになったのでしょうか?それは織姫に原因がありました。織姫は機織(はたおり)の上手い女性でしたが、彦星と結婚してからは機織をせずに遊んでばかりいました。それを知った天の神である天帝はこのことに大いに怒り、二人の間を引き裂くことになったということです。
この伝説から中国では、女性が裁縫を上手くなるようにと7月7日の夜の星に祈りを捧げるという行事が生まれました。これを「乞巧奠(きこうでん)」と言います。この行事は奈良時代の日本に伝わり、宮中行事の一つとなったと言われています。
古来から日本にある行事と結びつく「七夕」
中国の乞巧奠とは別に、日本にも祖先の霊を迎えるお盆の前の旧暦の7月7日に祓えの行事が行われていました。神様に仕える「棚機津女(たなばたつめ)」という衣を織る女性がおり、川などの清い水辺にある機屋に一晩こもって「棚機(たなばた)」という織り機を使って神様の衣装を織ります。それを神棚の供えて村人の穢れを持ち去って祓ってもらいます。
古代中国の「乞巧奠」と日本古来の「棚機津女」に共通しているのが、織物の得意な女性です。これが日本では結びついて、7月7日の七夕の習慣になります。「七夕」を「ひちせき」とは読まずに「たなばた」と読むのは、「棚機津女(たなばたつめ)」が由来となって入るというわけです。
最初は裁縫が上手くなるように願う行事でしたが、梶の葉に願いを書いて天の神の供えるようになりました。そして、室町時代に貴族が書道が上手くなるように短冊に和歌を書いて供えるようになりました。
江戸時代になると、七夕は五節句として幕府が年中行事の一つとして定め、貴族や武家だけでなく一般の庶民にも広がっていきます。寺子屋で文字の読み書きを習うようになった庶民も、書道が上手くなるようにと短冊に和歌や詩歌を書いて笹竹に飾るようになりました。こうして、現在の願い事をする七夕の習慣に繋がって行きます。
七夕の笹飾りは日本独自の風習
七夕で笹竹に飾りをつけるのはなぜなのでしょう?
短冊に願い事を書いて笹竹に飾る習慣である「笹飾り」は、中国から伝わった風習ではなく日本独自のしきたりで、江戸時代に始まったとされています。
笹飾りは「五色の短冊」、「吹き流し」、「菱飾り」、「綱飾り」などで、古来から邪気を払う力があると言われる笹竹に吊るして、七夕の前日である7月6日の夜に家の外に立てて飾ります。「五色の短冊」は中国の陰陽五行説にちなんだ赤・青・黄・白・黒を示し、「吹き流し」は織姫の織糸を表し、「菱飾り」は星が連なる様子を表し、「綱飾り」は豊作・豊漁を祈願する投網を表しています。
笹飾りを家の外に立てるのは、天の神様が現れた時に宿る憑代の意味からのようです。天に願いが届くようにと高く掲げたほうがよいと考えられています。江戸時代は笹飾りの高さを競うように屋根の上に立てていたそうです。7月7日の江戸の空は、青々とした笹竹と願い事が書かれた色取り取りの色彩豊かな短冊で華やかであったようです。
日本ならではの「七夕送り」
七夕の翌日に笹飾りを川や海に流す行事が「七夕送り」です。これは穢れを祓うことができるとされています。
この風習は七夕で笹竹に迎えた天の神様を送り返すと言う意味合いがあり、笹飾りが天の川に到着する頃に、短冊に書いた願いごとがかなうとされています。笹飾り自体が日本独自のものなので、この七夕送りも日本独自の風習となります。
ただし、現在は自然環境保護の意識も高いので、環境へ配慮して笹飾りを川や海に流さないようにもなってきています。長く続いてきた風習が次第に無くなってしまう可能性もあり、このあたりは少し寂しいことかもしれませんね。
七夕にそうめんを食べよう?
7月7日にそうめんを食べる習慣があったのを知っていますか?そうめんは機織の糸に似ていることから来ているようですが、その由来にも触れておきましょう。
七夕の発祥の地である中国では、熱病予防のために、7月7日に「索餅」という唐菓子を食べる習慣がありました。7月7日に川で亡くなった帝の子が祟りとなって熱病を流行させるので、その霊を鎮めるために索餅をお供えにしました。帝の子は生前に索餅が好きだったということがその由来です。
索餅は小麦粉と米粉と塩を混ぜて練り、ねじりあげたお菓子でそうめんのルーツとされています。
日本へは奈良時代に伝わり、七夕は麦の収穫期であるので、収穫されたばかりの麦を使った索餅を食べていました。それが次第に同じ麦から作られるそうめんを食べるように変化していきます。江戸時代には、その習慣が徳川将軍や京都の貴族、一般の庶民まで幅広い層に定着するようになりました。
また、細長いそうめんが、棚機で使用する織り糸に似ていることも、風習が広まる背景にもなったようです。
一度廃れた日本の七夕
七夕と言えば日本人なら誰もが笹飾りをイメージすると思うのですが、江戸時代に広まったこの風習が一度廃れてしまったこともあるそうです。ちょっと考えられないですよね。それは、なぜだったのでしょうか。
それは明治5年(1872年)12月3日が太陽暦の明治6年1月1日に変わったこと、つまり旧暦から新暦に切り替えたことから次第に七夕が廃れていくようになったのです。
旧暦の7月7日は、現在も使ってる新暦に当てはめると8月上旬の頃になります。この時期ではもう梅雨明けしているので、天候にも恵まれやすいです。そうなると星空を見上げることが多くなります。
一方、新暦の7月7日はまだ梅雨明けしていない時期で、天候が悪くで星空が見え無いことも多い季節となっています。ですから、せっかく飾った七夕飾りも雨で台無しになってしまうことが多くなりました。こういった季節の食い違いが七夕が下火になるきっかけとなってしまいます。
さらに、第一次世界大戦後の日本経済の不景気も、七夕離れに追い討ちをかけることになりました。
七夕といえば仙台七夕まつり
昭和2年(1927年)、大正時代から続く不景気を吹き飛ばそうと、仙台の商店街の有志が集まり、「仙台七夕まつり」を復活させます。このまつりは仙台藩主・伊達政宗が奨励したといわれる豪華絢爛な七夕飾りで有名ですね。
これをきっかけとして、全国の商店街に七夕が夏の風物詩として復活するのでした。七夕といえば、仙台のあの飾りを思い浮かべる人も多いですよね。なぜ仙台の七夕があんなに有名なのかというと、こういう話があったからなのですね。