百田尚樹『日本国紀』は歴史の勉強嫌いにはいいかな? 私は期待し過ぎでした。うーむ…色々と世間は騒がしいようですが…




百田尚樹さんの『日本国紀』をただいま読書中。この本が面白くなるのは、江戸時代を過ぎたあたりからかな?と個人的に感じたことを最初に述べておきます。(この投稿、何日間かに渡って書き加えたりしているので、特定の時点での私の頭の中ではありません。時間の揺れがあると思います)

まずは、帯に書かれた次の言葉に期待が膨らみます。

私たちは何者なのかーー。

当代一のストーリーテラーが、平成最後の時に送り出す、日本通史の決定版!

百田尚樹 著『日本国紀

予約段階から増刷による増刷で、初版が20万部とか25万部とかどんどん増えて、ちょっとした社会現象になっていると言ってもいいでしょうけど、どうあれ百田さんが日本史の本を書いているというのは、ネット番組などで随分と前から知っていましたから、話題性に関わらず買うつもりでした。

発売日を過ぎてから注文し、先日、アマゾンから到着。

さて、百田さんはどう料理するのだろう? とても期待して待っていた1冊でした。

さて、現時点での私の感想と行きましょう。といっても細かい内容にはほぼ触れませんけどね。ネタバレは無しです。(ほぼ無し)

やはり通史はなかなか面白いものにはならない

「ちょっと500ページを通史に納めたことで無理があったかな」と感じてしまいます。これは通史という本の性質上仕方ないかな。敢えて言うなら、作品としては失敗作かも。歴史マニアの人にとっては、すでに知ってることも多くて新たな見解などの刺激を求める人には楽しめない作品になってるような気がします。細かい知識を知っている人でも一気に日本の歴史の流れを楽しみたいと言う人にはいいかもしれません。

ちょっと不完全燃焼を感じるんですよ。時代ごとの説明がやっぱり通史は浅くなっちゃいます。「あ、ここはあっさり通過するんだ」「あの点には触れないんだな」というのがどうしても出てきます。その辺りはどうしても惜しいなと思ってしまいます。でも、そこに対して「あれが書いてないからダメだ!」とか批判している人ははっきり言って愚かな人だと思います。くだらない批判です。そもそもそんなの無理っすわ。

逆に、それくらい簡単に収まらないことが、日本の歴史の長さ、奥深さ、素晴らしさの証でもあると思うのですけど。なんだこの人は?って人物が出てくるのが多すぎるとても豊かな国なのですよ。

まあ、歴史なんて別に新しいことが今になって突然発見されるってことなどそんなに無いわけですし、ストーリーがとんでもなく違うものになるということは、歴史的な大発見でも無い限りほとんどあり得ないでしょう。だから話がそれなりに知ってることに収まるというのは当然ではあるでしょう。なので物足りない面が出てくるのは当然だと思います。

ただ、学校の教科書を読んで歴史の流れをつかもうとして眠くなってしまう人には、これは読みやすいところもあっていいかもしれません。ところどころに出てくる百田さんの考えが、時には深めてくれたり、余談として肩の力を抜いてくれたり、歴史のミステリーに誘われたりと、単調に時間が流れそうになる通史を面白くしてくれていると思います。

逆に、学校で習う教科書の記述がこれまで偏っているからそのあたりを徹底批判するような超突飛な通史を期待したい人であるとか、左翼教科書と言われるものに対して超保守的で皇国史観的な本を期待していた人にとってはこれまた物足りなさを感じるでしょう。いや、認めたく無い本であるでしょうね(笑)

ですので、それほど無茶苦茶なことを書いてる訳では無いです。読みもせずヘイト本とか言ってるアホは頭がどうかしています。

読んでていて、眠くならないように歴史教科書流れの内容に沿って書いてるって感じで、そこにところどころ百田さんの考えや百田さん流の表現の持って行き方とが顔を出す作品という感じでしょうか。

結論としてはそのまま読んだ私にとっては、怠い作品となっています。ちょっと先を読むのがだるくなってきてるんですよ。なので、個人的には残念な作品になってる感じです。敢えて怠いと書いてますが、面白いところはもちろんあるので、ここは私のこれまでの歴史の学び方と関連しているだけの思いかもしれません。

ただ、日本の歴史教育は十分なのかと考えられている今日ではあるので、こういう読みやすい通史を世に出したという意義はあったと思います。

ただ、これから書いて行くのですが、ちょっと、うーむ…と思ってしまうところは確かにあるんですよね。

ネットには数多くの日本国紀批判があるが…

ネットにはアンチ百田尚樹による批判やイチャモンが数多くあります。読まずに文句言ってる人もいますので、そのあたりは完全に無視していいでしょう。Amazonの評価にもそんなのが沸いています。トンデモ本っていうdisりも了見の狭さを感じますね。的外れです。

ただ、きっちりと本文を読んで批判している人もいますが、中には「それは言葉の綾程度のもので批判してもあまり意味が無いよなぁ」と思われるものもあります。例えば、2000年の歴史の長さを2670年だとかごちゃごちゃ言っても、読んでるこちらとしては「まあ、どっちも言いたいことは同じことだよな」としか思えません。

「日本には一切●●なことは無い」というような表現も、ある時代には「●●なことがあった」と言う表現を見つけて、矛盾だと指摘しても全く意味を感じない。「一切」と言う言葉があっても●●なことがゼロとは普通は思わないことも多いのではないでしょうか。まあ、世界的に見ても群を抜いて少ないと言う意味で捉えるのが常識人の感覚でしょう。もちろん、きちんと分けた表現をした方がいいというのもわかりますけどね。一般論を強調する時にそう言う強い言葉で断定することは、一般社会でもあるでしょうし。

あと百田さんの説を「ネタ元は井沢元彦本だな」とかいう指摘もあるようですが、そうかもしれませんが、ここも別にどうでもいい。なぜなら、私は井沢本を読んだことはありませんが、「こういう考えもできるんじゃ無いかな」とか素人なりに考えを巡らせてたこともあり、それに似た内容がここに出てきたものもあったので、目くじらを立てるほどのものでも無いと思いましたよ。

こういった批判はあまり意味が無いと思うんですよね。歴史学の教科書、学術書を書いているなら別ですが、百田語り「我が国の歴史」ってことなのでしょうから。

ちなみにヘイト本とか言ってる奴はマジでアホですわ。

元官僚の八幡和郎さんは丁寧に学説や自分の研究などと比較して、丁寧に賛否をコメントしています。ただ、読んだ感想としては「どうでもいいかなぁ」って感じ。例えば沖縄戦は八幡さんは軍中枢の時間稼ぎとして批判しているのですが、百田さんは沖縄を日本の兵隊さんが命がけで守ろうとしたものとして評価しています。確かに賛否分かれているのですけど、どっちも正解ですよね。政治の動き、軍の動きとしては八幡さんは正解。命がけで戦ってる姿としては百田さんが正解。見てるものが単に違うわけで、どっちでもいいわって感じ。逆に真面目にやるとシラけちゃいますね。日本人の心としてどっちをとる? 思わず、「マジメか!」ってツッコミたくなるような感覚です。

コピペ疑惑etc? その元からの記述なら何も問題無いが…

ネットにはもうすでに数多く指摘されているのですが、ウィキペディアのコピペだと言われるものがあります。

ただ、ウィキペディア自体がそもそもネタ元があるコピペだろって思うので、ちょっとこの批判はなんだかなぁ?とは思う面もあります。ウィキにある記事の出典先を読んでいたなら当然そうなって然るべきですから。

もちろん、日本国紀には出典や参考文献などは、本文で言及してるもの以外は無いので確認のしようが無いのですが、私個人としては文献一覧がなくてもこう言う本の場合は気にしません。そこばかり批判してる人もいて、小説は提示しなくていいから逃げたとか、作品として認めないとか言ってるわけですが、別にそこは本を楽しむものとしてはどうでも良いです。

もちろん、学術書として読み込むなら別ですけども。だからといって、学術書じゃ無いから、歴史が書いてるわけじゃ無い、インチキだ!みたいな批判も意味がありません。どうでもいいです。それに歴史学に携わる人の書いた一般向けの歴史の本でも参考文献の無いものなんて普通にありますからね。

多分、そこばかり言ってる人は、参考文献があったらあったで他人の説のパクリだといい、無かったら無かったで参考文献が無いと騒ぐ。まるで日本の野党政治家やマスコミがやってるような主張の展開と同じ様式美を見せるに違いありません。

と、コピペ系の批判から擁護をしては見たものの、指摘の部分をまとめているサイトを見ると、かなりあると言うのがとても気になります。はっきり言って、作品に対してシラける出来事でした。そんなに出てくるものなのだろうかと。指摘内容に対してゴーストライターが書いたのだと断定的な批判を見ましたが、それは本質的なことでは無いでしょう。誰かが名乗らないと確認のしようが無いですから。そもそも違ってたらどうすんねん? そのまとめサイトはの表現はとても悪質だとも感じました。

仮にウィキペディアの内容から通史をコピペ的にまとめていたとしましょう。私は、そういうものもあっていいと思います。もちろん学術書としてではなくて、歴史の一般書としてですよ。それに常識的な話となっているものについてはどこから引っ張ってきてもいいと思うので。ただ、百田さんくらいの作家であれば、自分の言葉で言い直すような表現をして欲しかったなとも思います。

このあたりが文体として、やはり教科書ちっくな表現になってしまっている部分にも繋がるので、私が眠くなりそうな感覚に襲われることにもなる理由かもしれませんね。面白く無い教科書を連想するのです。ここは百田語りにして欲しかったと思うんです。百田さんがペラペラと歴史話をしているところの音声を録って書き起こした方が面白かったんじゃ無いかと思いもします。

にしても、wikiと似た表現、ちょっと多すぎでしょう。中には新聞記事の内容とほぼ同じというものもありました。これだけ出てくるとちょっとなぁ。全体の量から見れば確かに少ないとはいえ、ちょっと気になります。

最初に見た指摘は「明史」に関する部分で、そこは漢文の日本語訳でした。漢文の日本語訳なら、まあ、似た表現になることは可能性としてあるから日本語訳の本の原典からじゃないのかなと感じていたのですがね。ここまで指摘が多いとなぁ。ウィキの出典部分の該当箇所が全て重なる読書をしているという可能性も否定はしませんが、どうもウィキの間違い部分も同様に掲載されてるという指摘もあると、ちょっとあれだけ強気の出版姿勢だったことを考えると、読んでいて気分が重くなります。

しかしまぁ、百田さんの本の粗探しや百田さんの発言をいちいちまとめてブログにして批判してるのとか見てると、ストーカーというか、ちょっと気持ち悪いところもありますね。もちろん妥当な指摘の部分もありますけど、ちょっと悪意的に切り取って文脈無視で吊るし上げてるようなものもあるので、はっきり言って正しい批判には思えないブログでした。悪質と言ってもいい内容のブログだと思います。まじで気持ち悪いぞ、暇人。そんな感じ。ひょっとして炎上商法でアクセス稼ぎ目的?そのアクセス増の先にあるのは…ああ、なるほど。と勝手に思っています。

それ以上に残念なこと

ただ、これまでのことは、まあどうでも良いかなと思ってもいます。ウィキのコピペであったとしても、その出典先の本が実際にあるのであれば、理屈上は同様な内容にもなるでしょうから。それに、アンチの百田批判も、細かな間違いを指摘しての百田批判も、近現代に対する部分はあまり無いように思うのですよね。やっぱり全部読んでない人とか、都合の悪いことに関しては指摘していないという批判側のいい加減な姿も見えてきます。

ちなみに百田さんのウィキのコピペに対してこんなツイートをしています。

まあ、このツイートの内容に対しても、アンチくんたちは鬼の首を取ったかのように色々と脚色するのでしょう。(間違いとかで執拗に騒ぐ人って、間違いを犯したことはこれまでないのかな?とか度を越す発言をする人には思えてきて、信用できなくなってきます)

ただ、このようなこと以外にも残念なことがいくつかあるんですよね。

百田さんの勘違い?

内容については、これもネットに指摘がありますが、ザビエルの言葉をフロイスの言葉と紹介しているところですかね。フロイスの本を持っていないので私は確認できないのですが、フロイスの言葉の中にザビエルの言葉に触れるところがあるのかもしれません。そこを書いたのだと言う擁護の方法もあるとは思いますが、ただ有名な言葉のようなので、こういうところは気をつけて欲しかった。まあ、ここは当時、日本に来た外国人はそう思っている人が多かったと言うことを百田さんは言いたいのでしょうけどね。

ここは、百田さんの勘違いなのかなと思います。虎ノ門ニュースでの発言を見ていると、時々勘違いして間違った言い方をしていることがあるのに気づきます。ニュースとか、出来事とかの話でも。そこを博識の居島一平さんが「●●のことですかね?」と指摘して訂正するような場面はたまに見かけますので。まあ、誰でも思い出しながら話すと言い間違いがあったりしますから、これ自体は細かくいう必要は感じませんけども。ここでの救いは、言い間違いや勘違いしてるけども、言いたいことの本質はわかるってレベルということですね。

ただ、放送なら周りから訂正が入ったりするから良いのですが、すでに出版された本となるとちょっとどうなのかなと。

せっかく凝った装丁の本にしているのだが…

でも、やっぱり残念なのは、本を作る過程かなと思います。教科書的で無い通史を読みたいなと思っていたのです。そこに百田さんが書くっていうのですから期待も大きくなりましたよ。なんせ『永遠の0』『海賊とよばれた男』の著者ですからね。大好きな作品ですよ。私は本は読む方だとは思うのですが、なかなか長編小説は読めませんでした。ストーリー追うのが苦手というか、休憩した時に登場人物の名前を忘れたりするので楽しめなかったんです。でも『永遠の0』は一気に読めて、魂震えましたよ。海賊も然りです。ただ、上で触れたような指摘がここまでとなると、ちょっとなんとも言えません。どういう本の作り方をしたのだろうと…

それに、本ができるに当たって、出版元の幻冬舎も紙の質とかカバーのデザインとかかなり頑張ったという話もありました。確かにハードカヴァーで丁寧に作られた本です。確か幻冬舎創立何周年とか記念出版にもしてましたよね。幻冬舎の見城徹さんは熱のあるすごい人で、これまでのいろんな話題を作ってきた人でもありますから、それにもワクワクしたんですよ。だけども、ちょっと色々指摘されてるところが言い訳できないような数にもなってきてるような気もして…

本の形はすごく立派にしたのに…うーむ…

編集で切り過ぎた?(私の見落としかな?)

あと、これはひょっとしたら、私が読み飛ばして見落としなのかもしれないのですが、どうも編集前の原稿にはあったのか、ページ数を絞ろうとしてカットしてしまったのか、どうも記述が飛んでるような印象のところがあるのです。

それは、戦国時代のところで、「イエズス会宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(信長に弥助を献上した人物)」とあるんですよね。この括弧書きの部分です。この弥助を知っている人は多いとは思うのですが、奴隷としてとして連れて来られて信長に献上された黒人ですよね。でも信長は気に入って家臣にまでして、いろいろと逸話が残ってるのですけど、その一連の話が無いと、上のような書き方をしたら、知らない人が読むと「え?弥助って?」となって、いきなり弥助の言及があるので、なんなのだろうかと思うんじゃないでしょうか。

これを目にした時に、「あれ?出てきたかな?それともこれから出てくるのかな?」と思ったんですが、ちょっと記憶に無いんです。なんかしっくり来ない流れなんですよね。こういう書き方だと、それまでに弥助に触れてるって感じですよね。弥助の話を百田さんがどんな風に仕上げるのかって期待もしちゃうと思うのですけど。あったのかなぁ? ちょっと読み直す気力が無いので、確認はして無いのですが…

この点、私の見落としなら申し訳ないです。

監修の段階での疑問

あと、監修者。ネットでは監修者の一人が自分が監修と言われるほどのものではないと、謙遜して言ってる発言を名義貸しだと批判してる人がいたりして、それについてはウンザリします。日本人ならそういう引いた態度、一方は相手を持ち上げる態度というのは感性としてあるでしょう。何を勝ったかのように批判してるんだと思いました。これを言ってる人は人としての心が無いなと感じましたよ。常識が無い。

で、この点に関してはは別にいいのですが、それよりも、以前ツイッターのタイムラインなどで見ていたのですが、歴史コメンテーターの金谷俊一郎さんが監修に携わってるということの方がとても気になります。最初にこれを見たとき、「ああ、それなりにいろんな人の目を通してる作品なのだな」と思いました。最初に金谷さんが監修のツイートをした時に私も「楽しみです」とコメントをつけてリツイートした記憶があります。百田さんのことですから内容は突飛なことを書いても、大筋としては歴史に携わる人から見ても議論は起こっても一般向けの本としては無茶苦茶な作品にはならないだろうと感じていたのです。実際、金谷さんは原稿を「面白い」とツイートしてもいたし、「批判が予想される内容だが議論のテーブルへ」というようなツイートもしていました。

そしてこの「批判が予想される」というツイートに編集者の有本香さんが「ええ?言ってくれたらよかったのに」というようなツイートを返してたんですよね。この一連のツイートは削除されているのかな?私は実際にこのやり取りを目にしたのです。だから、逆に「どんな百田節が見れるのかな?」と思って期待も膨らんだのです。

ところが、これまで起こっている百田本への批判は、歴史をテーマにした面白い議論にはあまりなって無いですよね。それに、本の謝辞の部分で監修にあたって助力をいただいたという人の中に金谷俊一郎さんの名前が無いんですよね。

もちろん、これは理由もあるのだと思います。批判が起こるだろうなと思ったところはしっかり指摘すべきことだから、それをしてないなら監修の意味がなく、本を作る上で名前が無いというものわかるんです。そこで関わりをクリアにしたのかなと。それくらいしっかり内容にしたいという編集側の思いもあったでしょうから。実際、どう言う判断でこなったのかは色々ここで想像しても意味が無いですし、また、ネットにある書き込みも憶測の域を超えませんから、ここでこれ以上は詮索するつもりはありませんが、実際に、上のようなやり取りと、金谷さんが絡んでいたことを目にしている身としては、本を開いた瞬間に「あれ?」と思いました。ネットで話題になる前から、「あれ?名前が無いな。どうしたのかな?」と思ったんですよ。

こう言った流れを見ると、どうも本への思いが萎んでしまいました。

私にとってページをめくる指が重くなって作品

だからなのか、ページをめくる指が重いんですよね。ひょっとしたら、最後まで読み終えることができないんじゃないかと思ったりもしましたよ。私は別にトンデモ本だとかそんな批判はしません。なにか煮え切れない思いが湧いてきてしまったんですよね。期待していた本だけに、アンチの批判も一蹴してくれると思っていたのですが、それ以外の何かモヤモヤとするものが心に残るんですよね。百田さんが全面に出てくる部分は意見に賛否はあるとしても楽しいですけども。

私は、本を買って損をしたと思うことはほとんどありません。何がしかの価値を取り出そうと読んでいるので、そう思うことは無いのです。ただ、この本は、ちょっと雑音が多くなってしまった気がします。深く考えずに、通史として軽く読み流して楽しめる本ではあるのですけどね。雑音を吹き飛ばすまでにはいまのところ感じてません。

おわりに

百田尚樹さんの『日本国紀』は通史として一気読みするには、教科書を読み直すよりも楽しく読めるでしょう。そういう読み方をするなら良いと思います。そして関心を持ったテーマについていろんな本を読んで歴史に関心を持って理解を深めてくれたらいいでしょう。歴史通の人よりも一般向けの本ですね。

ただ、ちょっと百田さん流の勘違いはあるようです。と同時にネットで指摘されていることをどう考えるかは各自の判断でしょう。ここでの私の感覚は伝わったでしょうかね。

期待が大きかった作品にしては、批判されてるところを別としても、ちょっと肩透かしな感じがします。これはやはり、日本の歴史の奥が深く、それに長い伝統を持つ国であるがゆえに、百田さんでも通史500ページでは難しい仕事なのだと思いました。マンガの日本史でも何冊にもなりますからね。はっきり言って、通史を1冊では内容は薄いです。日本の歴史は500ページに収まるほど薄くは無い。1時代500ページ必要。そんな思いです。

発売前から色々と期待値を上げすぎてたかな? 著者周辺も、本を待っていたい人も。私の場合は、何も知らずに普通に手に取ってたら素直に楽しめたかも。

冒頭にも述べましたが、この本が面白いと思えてくるのは後半でしょう。近現代史にページ数の半分を使っていますから、時代の流れの記述としては他の時代よりも詳しくなります。学校の授業では近現代史を扱うのはさわり程度といわれていますからこのボリュームではそれまでの薄く感じられる部分とは異なります。よく言われる戦後史観について疑問を呈する視点でもあるので、教科書のもつ意図的に卑下する陰気さとは違うものが感じられるでしょう。この本の肝はこの後半の近現代の部分でしょう。

不思議なことに百田さんをディスってるブログやツイートで、近現代史の言及してるのって目にしてないんですよね。どちらかというと、こちらの時代の記述の方がこれまで学校などで言われてきた内容に対峙するものなので、もっとざわついてもいいと思うのですけどね。触れたくない事情でもあるのでしょうねぇ。百田批判したい人にとって都合が悪いことが書かれているのでしょうかねぇ。

まあ、細いことろは置いておいて、一般向けとしては面白く読める通史だと思います。大きな流れを捉える意味で楽しんで読みましょう。それが一番です。ちょっと私はいらぬことを考えて、ちょっと楽しめなくなってしまっていますが、そんなことを言いつつも面白いところはたくさんありますからね。全否定では全くありません。

そういえば、確か竹田恒泰さんが教科書検定通過を目的としてた歴史教科書を作っているそうなので、そちらも今は期待しています。こちらは論文などの根拠が無いと検定に通りませんから、上で書いたような騒動にはならないでしょう。騒動にする方が意味がありません。たとえ検定を通過しなくても、相応の手続きを踏んだものですから、しっかりした内容になるのは間違い無いです。確か、もうそろそろ結果がわる時期では無いかな? まあ、そうであってもアンチはどうせゴチャゴチャと言うのでしょうけどね。ばかばかしい。(2018年12月27日追記:どうも検定は不合格になったようです。理由は「神話が多すぎる」など。再度、内容を見直して検定に出すようです。そしてこの検定不合格教科書は出版するそうです。)

竹田さんと言えば、古事記の現代語訳とその解説本を出してますが、これは面白いと思います。日本国紀は縄文から始まるので古事記の世界はほとんどありませんから、考えようによっては、日本国紀よりもこちらの古事記を読んだ方が日本の心の源を感じるにはいいかもしれないなぁ。

個人的には米粒写経の居島一平ちゃんに歴史小話を延々とやってもらいたいなと思ってるんですけどね。それをそのまま本にして欲しい。マジで彼の知識は半端ないですから。あの名調子で歴史番組でもやってくれたらいいのに。

にしても百田さんの日本国紀は、保守の人からも左派の人から批判されてる感じですね。あ、左派というよりアンチか。まあ、結果的に歴史に関心を持つ人が増えるのは確実なのでは無いかな? それだけでも意味はありますね。

ああ、なんか書いてて気持ちの落ち着けどころが無いのが自分でもわかるわぁ。煮え切らない文章になり申し訳ない。もともと日本は生まれた国として好きですから、そもそも百田さんの狙いは私には必要無かったのかもしれませんね。まあ、アンチがごちゃごちゃ指摘してる部分はこの本の狙いとしてはどうでもいいレベルの話でもありますしね。

あ、そうそう。日本史教科書の批判なら、近代史ですけど倉山満さんの書いた山川教科書をテーマにしたものでもいいでしょうね。

日本近現代史に関しては、この倉山さんがじっくりYouTubeで解説してくれている番組もあるので、この際合わせて参考にしてみてはどうでしょうかね。これは本当に勉強になりましたよ。

でも、あれだなぁ。学者という立場じゃ無い人でも歴史について本は出してる訳で、もちろんそこには「ちょっとそれは無いだろう」って感じの話が書いてるものもあったりするのですけど、それにはここまで批判する人はいないんだよなぁ。そういう意味でも百田さん、すごいと思うよ。

だから、百田さんの歴史についての批判よりも、単に百田叩きをしたいってだけなんだろうな。学者なら認められない記述?いやいや、学者だってインチキな記述をいっぱいしてるんじゃ無いのかなぁ?

気持ち悪いアンチは放っておいて、それ以外の人には日本の歴史のエッセンスを知るキッカケの1冊になればそれでいいでしょうね。

(追記)

『日本国紀』は版を重ねるに当たって、間違いの訂正て表現も修正などが行われているようですね。これはいいことです。慌てず、もっと時間をかけてチェックして欲しかったなぁ。新聞などにもまともな書評が色々出ているようですけど、古代史とか古い年代にこだわり過ぎてるのが多過ぎ。「そこがポイントじゃないよなじゃないんじゃないかな?」と思いましたね。この本の肝は近現代史だと思うんですけどね。

さて、『日本国紀』の著者と編集者による副読本が出るようです。まあ、これで本書がどういう狙いの本なのか理解が深まるのではないでしょうか。

(再追記:2020/11/29)
ちょっと最近のこの著者の主張には乱暴さや矛盾、品の無さを激しく感じるようになりました。個人の思い込みと勘違いによる他人への攻撃が多すぎると感じます。私は、『日本国紀』よりも竹田恒泰さんの『天皇の国史』を読むほうが日本をしっかり学べると思います。