教育勅語の意味をわかりやすく理解したいなら逆にするとスッキリ! 「HINOMARU」騒動も印象が重なる




バンド「RADWINMPS」(ラッドウィンプス)の楽曲「HINOMARU」の詞が、愛国心を煽るだの軍国主義だのと批判を受けて炎上しているそうだ。シングルを回収し廃盤にしろとか、ライブなどで2度と歌うなとか要求してライブ会場で抗議活動をしようという動きもあるそうだ。

ただの営業妨害ですわ、こりゃ。この曲の発表ってサッカーのワールドカップもあるし、応援を意図した側面もあるんじゃ無いの? どうあれ、楽曲の発表は自由、それを論評するのも自由。それを超えた政治的な動きは全く支持できません。

教育勅語の話題なんかも、こういうニュースと重なることがありますよね。

国有地取引に不正があったのではないかということで、その土地を購入した学校法人森友学園が問題になって、もう飽き飽きするほど国会で無駄な審議がなされてきましたが、この「教育勅語」の話題も学園が話題になった最初の頃のニュースにも出てきて扱われましたね。

どのニュースも教育勅語をおどろおどろしいもののように伝えます。

教育勅語とは?

教育勅語とは正式には「教育ニ関スル勅語」といい、1890年(明治23年)明治天皇から国民道徳の基本と教育の根本理念を明示するために発布されました。終戦後のGHQ占領下に廃止されます。

大きな戦争を経てきた時代と重なり、現代の民主政治の考え方からは問題があると評されることが多い為に、距離をおくべきものと考えられたり教えられたりして来ました。(かなりソフトな説明にしてみましたが、実際はもっと悪意のある書き方をするものもありますね)

戦前生まれの高齢者を除いて、これを暗唱できたりする人は少ないですし、実際に読んだことがある人は少ないのが現状です。一体何が書いてあるのか全く知らないという人の方が多いでしょう。

学生時代に歴史の授業で日本が戦争に負けて、軍国主義に繋がるから廃止したというような理解の仕方をしてますが、いまだかつて全文を読んだことはありません。

ここでちょっと一回触れておきましょう。

教育勅語の原文

教育勅語の原文はこうなっています。

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト俱ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日
御名御璽

ちょっと読めないです(^_^;)

いわゆる明治期の擬古文体で書かれていますのでちょっとスラスラとは読めません。情けないです。古文・漢文の読み下し知識などが必要ですね。旧漢字やカタカナ表記というのも時代を感じさせます。

教育勅語の読み下し文

読み下し文にするとこうなるようです。

朕(ちん)惟(おも)フニ、我ガ皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)、國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ、徳ヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ。
我ガ臣民(しんみん)、克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ、億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ、世々(よよ)厥(そ)ノ美ヲ済(な)セルハ、此(こ)レ我ガ國体ノ精華(せいか)ニシテ、教育ノ淵源(えんげん)、亦(また)実ニ此(ここ)ニ存ス。
爾(なんじ)臣民、父母ニ孝(こう)ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相和(あいわ)シ、朋友(ほうゆう)相信ジ、恭倹(きょうけん)己(おの)レヲ持(じ)シ、博愛衆(しゅう)ニ及ボシ、学ヲ修メ、業(ぎょう)ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓発シ、徳器(とっき)ヲ成就(じょうじゅ)シ、進ンデ公益(こうえき)ヲ広メ、世務(せいむ)ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重(おもん)ジ、國法ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急(かんきゅう)アレバ、義勇公(こう)ニ奉(ほう)ジ、以テ天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スベシ。
是(かく)ノ如(ごと)キハ、独(ひと)リ朕ガ忠良(ちゅうりょう)ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾(なんじ)祖先ノ遺風(いふう)ヲ顕彰(けんしょう)スルニ足ラン。

斯(こ)ノ道ハ、実ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓(いくん)ニシテ、子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守(じゅんしゅ)スベキ所、之(これ)ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之(これ)ヲ中外(ちゅうがい)ニ施(ほどこ)シテ悖(もと)ラズ。
朕、爾臣民ト倶ニ拳々(けんけん)服膺(ふくよう)シテ咸(みな)其(その)徳(とく)ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。

明治二十三年十月三十日
御名御璽(ぎょめいぎょじ)

もっと高校時代の古文や漢文の授業を真剣に聞いておくべきだったと読んでいて思いました。

教育勅語の口語訳

読み下し文ならなんとか読めるでしょうけど、さすがに古い表現なののでちょっとわかりにくいところがあります。素読などでは大いに活用してみるのはいいですし、なんども読んでいれば意味も自然とわかってくるようなものです。「読書百遍義自ら見る」ということですが、口語訳は明治神宮のホームページにあるものを引用するとこうなります。

私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

〜国民道徳協会訳文による〜

 

こういう訳文でいろんなものを見ると、「この部分は、本来はこうすべきだ!」とか言ってる人をみかけたりしますが、そんな心の狭い人はここでは無視します。

教育勅語の十二の徳目

教育勅語はこうやって読むと一見難しい感じがしますが、書かれている内容を理解するにはエッセンスである十二の徳目に目を通すのが早いですね。

1. 親に孝養をつくしましょう(孝行)
2. 兄弟・姉妹は仲良くしましょう(友愛)
3. 夫婦はいつも仲むつまじくしましょう(夫婦の和)
4. 友だちはお互いに信じあって付き合いましょう(朋友の信)
5. 自分の言動をつつしみましょう(謙遜)
6. 広く全ての人に愛の手をさしのべましょう(博愛)
7. 勉学に励み職業を身につけましょう(修業習学)
8. 知識を養い才能を伸ばしましょう(知能啓発)
9. 人格の向上につとめましょう(徳器成就)
10. 広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう(公益世務)
11. 法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう(遵法)
12. 正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう(義勇)

さて、これを読んでいるとどこがどう問題で、軍国主義というものに繋がるのかわかりません。昔は外国語にも翻訳されて世界各国からも「素晴らしい」と賞賛されたとも言われています。

教育勅語は問題があると小さい頃から耳にして来ましたが、一体これのどこが問題なのでしょう?

ごく常識的なことしか書かれていないとしか思えません。もちろん現代社会において足りないところやじっくり意味を噛み砕かないといけないこともあると思いますが、絶対に触れてはいけないものだと言われるようなものでは全くないです。

何か恐ろしい思想というように扱われるのって、一体なんなのでしょう?

教育勅語の何が問題?「逆・教育勅語」がわかりやすい

この教育勅語の内容を逆にしてみたら、素晴らしい思想になるのでしょうか?

憲政史家の倉山満さんが、教育勅語を理解する上で実際にそれを『逆・教育勅語』としてやってみせてくれています。実に面白いです。

一、親に孝養をつくしてはいけません。家庭内暴力をどんどんしましょう。
二、兄弟・姉妹は仲良くしてはいけません。兄弟姉妹は他人の始まりです。
三、夫婦は仲良くしてはいけません。じゃんじゃん浮気しましょう。
四、友だちを信じて付き合ってはいけません。人を見たら泥棒と思いましょう。
五、自分の言動を慎しんではいけません。嘘でも何でも言った者勝ちです。
六、広く全ての人に愛の手をさしのべてはいけません。わが身が第一です。
七、職業を身につけてはいけません。いざとなれば生活保護があります。
八、知識を養い才能を伸ばしてはいけません。大事なのはゆとりです。
九、人格の向上につとめてはいけません。何をしても「個性」と言えば許されます。
十、社会のためになる仕事に励んではいけません。自分さえ良ければ良いのです。
十一、法律や規則を守り社会の秩序に従ってはいけません。自由気ままが一番です。
十二、勇気をもって国のため真心を尽くしてはいけません。国家は打倒するものです。

引用元:倉山満の砦 – 逆・教育勅語

面白いw これを読むと思わず笑ってしまいました。なんという殺伐とした道徳律になってしまうのでしょう。まさに逆に教育勅語の意味がスッキリ理解できるようになります。教育勅語と比較すればどちらがまともな道徳観かは明らかですよね。

でも笑った後になんとも言えない気分になります。ちょっと笑えなくなります。

学んではダメなの? 道徳って必要ないの?

これが学校教育で触れちゃダメというのに、なぜ論語などの暗記はいいのだろう? 論語も読み方次第では人を上から支配する思想でもあるのですし。また、憲法前文や9条も暗記させられた学生時代を経験した人も多いはず。

道徳教育が問題になることはあります。もちろん教科として評価するにはどうすればいいのかわからないという面もあります。でも、教育ってそういう評価をするだけのものではないはずです。

「道徳教育」というと、新渡戸稲造の『武士道』の序文に書かれたエピソードを思い浮かべます。

ベルギーの法学者ラヴレーとの散策中の会話が宗教の話題になった時、新渡戸が日本には宗教教育は無いと話したことに対して、ラヴレーはこう繰り返したそうです。

「宗教が無いとは。いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」

この問いへの答えを探すことが新渡戸の『武士道』という著作に繋がることになったそうです。この問いは現代にも通じる議論の欠落したテーマでしょう。

教育勅語はその編纂に当たって、あらゆる宗教的な立場や思想の自由を侵害しないことが重視されたという流れがあるそうです。この経緯、意味内容を無視してただ戦前のものは全て悪ということで蓋をしてしてしまうのは逆に現実を見ないことになるのではないでしょうか。戦争との絡みで利用されてしまったものは、洋の東西を問わず数多くあります。

古典の一つとして

教育勅語も論語や源氏物語と同じように、一つの古典として捉えたらいいと気楽に考えています。古典にはその内容から道徳的なテーマに意図しなくても必然的に触れることができたりします。昔話を読んでいてちょっとした教訓を学ぶのと同じです。

日本には言論の自由がありますから、自分の置かれた状況を自ら考えて自由に解釈・理解すればいいのでは無いでしょうか。もともとそれが教育勅語の出発点のようなものにも思えます。

教育勅語を使わないとしても、日本にはいろんな古典の中に人が大切にすべきものが書かれています。オススメは、『実語教』と『童子教』です。江戸時代の寺子屋の教科書とも言われていて、教育勅語に書かれている内容以上に日本が古来から大切にしてきたことが書かれています。伝統を大切にする方法はいくらでもあるわけです。

まとめ

この問題、当時の戦争(政治)に利用されたというだけでしょう。

おそらく「正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう」っていうのが、戦争になったら国のために命を捨てる覚悟を持てって方向性で捉えられてしまうのだと思います。実際そういう危機に直面したら、そうするしかないよなと思うこともありますし、例えば大災害が発生した時などはどうあるべきかと考えた時にも通じるはず。偏狭で浅はかな読み方はすべきではありません。

単に禁止するのではなくて、もっと戦争について正面から考えることも重要でしょう。憲法9条で万事オッケーって済ませてはいけないわけです。

教育勅語を「戦前」「戦争」のキーワードだけで否定する必要は無いです。と同時にそれ一点の教条的な扱いをするような振る舞いにならないことも大切です。そもそも教育勅語はそういう態度を否定する考えでもあるのでは無いでしょうか。

伝統を大切にする社会にとっても、新しく変化していく社会にとっても、人として大切にすべきことは何かを考えるための数多くの材料の一つにはなるはずです。というか、ちょっと「戦前」という言葉にビビり過ぎと思いますね。

戦前の軍国主義も今の平和主義も全く構造は同じように見えます。極端に振りすぎ。何かあったらまた大きな被害を受けそう。もっとリアリズムで考える必要がありますね。

教育勅語自体はいろんなものを学ぶ中の一つとして教えること自体は全く問題ないのではないですかね。考えるきっかけになるものだと思います。過去の偉人や古典の言葉はいろんな教科であちこちで出て来るのですから。

何か問題のありかが違うところにあるような気がします。

それにしても、「逆・教育勅語」の破壊力の凄いこと。よく考えたらこの「逆・教育勅語」から「教育勅語」をまともに読んだというのが実情でした。

そもそも、天皇のお言葉(政治的な位置付けは無い)ということですから、現在の陛下が震災があったときなどの国民へのメッセージと同様にそのまま受け止めれば良いものだと思うのですけどね。

(2018年10月5日 追記)

柴山文部大臣が就任会見でNHKから教育勅語について聞かれて発言したことに対して、過剰に野党などが反応していますが、どうもただの脊髄反射にしか見えません。もうワンパターン。

さらにいろいろと思ったことがありましたので、次のように書いてみました。

教育勅語を拒絶する感覚が無くなった個人的な考えの変化

もはや、言葉狩りにしか思えませんけどね。こんなことでまた軍国主義なんかにはなりませんよ。日本人を舐めるな。