西部邁氏の思想に魅力を感じなくなったのは、彼のその最後




評論家の西部邁さんが自裁して、すでに半年が経過しています。

西部氏は元々は全学連の執行委員長を務めるなと左翼の立場であった人ですが、左翼過激派の動きに共感するものがなくなり思想的な立ち位置が変化。以来、保守系の言論人として、しかも独特な位置で評論活動をしていた人と理解しています。大衆の動きに対する危うさを常に意識していた人だと感じています。

言論人を育てることにも力を入れていて、弟子筋とも言われるような学者や評論家も独特な存在感を発揮しながら活躍しています。

著作の内容、思想には同意できる部分、できない部分、色々ありますけども、言葉には力のある人なので傾聴に値する話は多かったのではないかと感じています。日本人にとって厳しい指摘のようなものもたくさんありましたからね。

ですから、この報道があった時は、とても残念に思いました。と同時に、やっぱりそういう道を選ぶのもわからないでも無いなとも思いました。

西部邁氏の最後は全く評価できない

ただ、単なる自裁では終わりませんでした。西部氏は自裁する際に、知人に手助けしてもらったという報道はすでにされていて、その協力者が罪に問われ、今回判決が言い渡されました。

評論家の西部邁(すすむ)さん=当時(78)=の自殺を手助けしたとして、自殺幇助(ほうじょ)罪に問われた会社員、青山忠司被告(54)の判決公判が30日、東京地裁で開かれた。守下実裁判官は「計画の重要部分を担った」として懲役2年、執行猶予3年(求刑懲役2年)を言い渡した。

引用元:産経ニュース 西部邁さん自殺幇助、青山忠司被告に有罪判決 「遺族の悲嘆は大きい」 東京地裁

これは、当然の判決だと思う。

同時に、西部氏に失望する出来事でもありました。西部邁氏の最後は全く評価できません。

保守思想家らしさの最後?

西部氏の自裁の報道があった時、「西部さんらしいのかもな」と感じたわけです。保守思想家らしいと言うか。

多分、この件で連想するのは三島由紀夫の最後ですかね。あとは、右翼活動家の野村秋介さんの最後です。

メッセージ性とかいう言葉は使いません。その思想的なものを追いかけるには、私としてはあまりにも浅い知識しか持っていませんので。ただ、その最後には、敬意を評したくなるような圧倒的な存在感を感じるわけです。

最初は、西部さんの生き方も、こういう人たちに繋がるようなものなのかなと感じていました。

でも、この事件で全くこれまでの彼の活動に対して魅力も感じなくなり、評価できなくなりました。大切な仲間を巻き込んでしまったわけですからね。それも犯罪者にしてしまった。

自らの思想の否定に見える

思想家や評論家って、どこか孤独なところがあると思うのです。西部さんの思想の中には、何かそんな雰囲気もあると感じていました。

ところが、知人の手を汚させたわけですよ。彼の言論から感じてきたことの真逆なことをやってしまったような気がするのです。

自らの力で出来ないことになってしまったのなら、あきらめて病院や施設の世話になるか、もう命が尽きるまで苦しむしかないと思うのです。

その最後、美しくなかったなと感じました。手助けした人は、介錯をしたようなつもりでもあるのでしょうけど。お互いに納得の上なのでしょうけど。でも、そうじゃ無いだろ、という思いです。

あの頃の言論空間のちょっとした心地良さ

今になって思えば、西部さんが出ていた頃の朝まで生テレビは左右いろんな論客が出ていて面白かった。大島渚が怒鳴ってウケるというイメージばかりの番組でしたが、そこを除けば、いや、そういう場でもあったからこそ、言論空間の大切さを少しは感じることができていたような気がします。

徐々に、その頃の主要な論客は出演しなくなり、今となっては偏り過ぎが目立ったり、司会者である田原総一郎がただ机を叩いて怒鳴っているだけの老害にしか見えなかったり、なんでこんな人を出演させるんだというようなレベルの低い政治家のメンバーだったり、昔は多少なりとも勉強になるような香りがしたものが、今は不愉快さしか残りません。亡命するとかいう政治家とか、女性に乱暴したような人間とか、まだ清算が済んで無いような人を平気で出して、偉そうなこと言ってるわけです。軽いんですよ。

最近のこの軽さを考えると、西部さんなどの言葉の存在感をすごく感じるわけです。最後のあり方は否定はしないけど、その最後の方法によってその言葉が私の中から力を失っていくようです。保守論壇には大きな影響を残しているだけに、批判している人はいないのかもしれませんけどね。