第4次安倍改造内閣初入閣した柴山昌彦文部科学相の就任会見での発言が話題になっています。
何の話題か?また教育勅語でござるよ。要するに擁護発言をしたということですね。
戦前の軍国主義ガー!って脊髄反射する人多すぎ。そんなもので軍国主義になったわけじゃない。今の子どもたちに教えたところで軍国主義者になるわけない。
日本人を舐めすぎでしょ。
教育勅語については以前にこんなことも書きましたけどね。
教育勅語の意味をわかりやすく理解したいなら逆にするとスッキリ! 「HINOMARU」騒動も印象が重なる
私個人としては、全く問題ない。日本の歴史の1つ。もし問題があるというなら、その問題からも逃げずに見てみるべきでしょう。なんか何も検討も無しにワーキャー言ってるだけとしか思えません。
NHK報道に小西議員もお怒り
この話題について、亡命予定の国会議員のクイズ王さんも何やらツイートしています。
なんと、柴山大臣から教育勅語の肯定発言を引き出したのはNHK記者だ。なのに、なぜ、夜7時のNHKニュースで一秒もこの大問題を報道しないのか。現場のNHK記者が可哀想でならないが、一番悲惨なのは国営忖度放送に受信料を支払わされている国民だ。https://t.co/CDZIA5fjOl
— 小西ひろゆき (参議院議員) (@konishihiroyuki) 2018年10月3日
これまで国会でも言われてる内容程度の発言なのに、報道しないのは大問題だと大騒ぎ。大した問題じゃないですけどね、マジで。脊髄反射する人の一人です。
でも最後のNHK受信料批判だけは正しいことを言ってるかもしれません(笑)
その他、立憲民主党、国民民主党、日本共産党のいつもの面々も気持ち悪い発狂コメント出してますね。
記者会見での発言は?
いったいどんな発言があったのか? 記者会見の全文がネットにありましたので、該当部分だけ抜き出して見ましょう。
NHK:NHKの【アンドウ 00:15:06】です。大臣はご自身のTwitterで今年の8月17日に、「私は戦後教育や憲法のあり方がバランスを欠いていたと感じています。」とツイートされていますが、戦後教育や憲法や在り方がどのようにバランスを欠いていたと感じていらっしゃるんでしょうか。
柴山:はい。その私のツイートの趣旨は、やはり教育というのは当然のことながら私たちの権利とともに、義務や規律ということについても教えていかなければいけないと、これは当然のことだと思っております。ただ、戦前、その義務とか規律が過度に強調されたことへの、これもまた大きな反動として、個人の自由とか、あるいは権利ということに重きを置いた教育、あるいは個人の自由を非常に最大の核とする日本国憲法が制定をされたということだと思っております。
そういう中で、憲法についてはわれわれ憲法尊重擁護義務がある公務員ですから、ちょっとここではその在り方について言及をすることは避けたいというふうに思うんですけれども、少なくとも教育においては権利や義務、あるいは規律ということを、しっかりバランスを良く教えていく、こういったことがこれから求められるのではないかと、そういう趣旨でツイートしました。
NHK:関連してなんですけども、教育勅語について、過去の文科大臣は中身は至極まっとうなことが書かれているといった発言をされているわけですけども、大臣も同様のお考えなんでしょうか。
柴山:はい。教育勅語については、それが現代風に解釈をされたり、あるいはアレンジをした形で、今の例えば道徳等に使うことができる分野というのが、私は十分にあるという意味では、普遍性を持っている部分が見て取れるんではないかというふうに思います。
NHK:それはどの辺が十分今も使えるというふうに考えてらっしゃるんでしょうか。
柴山:やはり同胞を大切にするですとか、あるいは国際的な協調を重んじるですとか、そういった基本的な記載内容について、これを現代的にアレンジをして教えていこうということも検討する動きがあるというふうにも聞いておりますけれども、そういったことは検討に値するのかなというふうにも考えております。
引用元:THE PAGE 柴山昌彦文科相が就任会見(全文)教育勅語の現代風アレンジは検討に値する
別に利用することを強制してるわけじゃないから目くじらを立てるものでも無いと思いますけどね。
それに戦時中(にそうだったかどうかは知らないけど)のように暗唱させられて、覚えてなかったら罰ゲームみたいな使い方をしようってわけじゃないでしょうに。それに、その点は教育勅語に限らないわけで。
教育勅語が良いならヒトラーの良いこともOKと皮肉る批判のデタラメさ
よく教育勅語の内容には良いところもあるから今も学んで問題ないと擁護側は主張します。
それに対して、批判側はヒトラーにも良いところがあるならそれも学べばいいってことなの?とかいうものがあります。皮肉を使った批判なのでしょうけど、これはデタラメだと思いますね。
似たような批判に、山口組の綱領にも良いところがあるから使ってくれ、と茶化すのもありましたね。
教育勅語って天皇陛下の言葉でしょ。陛下は反社会的存在なわけ? ナチスのような民族を根絶やしにするような計画を実行するような人とでもいうの?
この比較での批判ってデタラメでしょう。誰の言葉だと思ってるんだ? 憲法に規定されている人の言葉を危険と解釈する方の頭がどうかしてると思うのですけどね。(もちろん教育勅語は今上陛下の言葉ではなく明治天皇の言葉だけども)
よっぽど教育勅語を攻撃する共産主義思想や左翼思想の方がよっぽど危険だと思うのですけどね。マルクス主義が世界中に振りまいた悪影響、どう思うってるんだろう? マルクスも良いこと言ってる? なら言ってること同じじゃないですか。
いくつかのツイートを見たのですが、一例がこういうのですね。
教育勅語には「いいこと」が書いてあると擁護する意見を見るが、そんなこと言ったら「我が闘争」にも「共産党宣言」にも「いいこと」は書いてあるぞ。
— 竹熊健太郎《地球人》 (@kentaro666) 2018年10月5日
日本ではそれらの出版物、別に禁止されてませんしね。自由に使ってますよ。
ヨーロッパに幽霊が出るーー共産主義という幽霊である。(マルクス・エンゲルス「共産党宣言」)
こういう文章、あちこちで粋に引用して使ってるわけですよ。私も何回か使ったことあります。このブログでは過去にあったかどうかは覚えていませんが、ツイッター他のところで名言的に引用して使ったことは何度かありますよ。
文化大革命でどれほど多くの中国大陸の国民が被害を受けたか? でも毛沢東の言葉を引用して意見を述べる自由もあるのがこの日本です。学校の授業でも紹介されたりするわけですよ。
だから、こういうツッコミの論理ってひっくり返ってるんですよね。逆です。なんでこれらがいいのに、教育勅語にだけピリピリしてるの?
教育勅語に批判に違和感を持つようになったキッカケ
教育勅語の内容って、じいさんばあさんなんかとの会話には出てきたりすることがありますよね。だからたいして違和感などありませんでした。
ただ、私自身も学校教育を受ける中で、天皇や教育勅語の戦前のあり方に違和感を持つ面もありました。お花畑の平和主義者にはなりませんでしたが、やっぱり戦前の暗さをどうしても感じてしまいます。
まあ、これって教育勅語というよりも教育の問題であって、私たちが受けて来た教育の方も問題であると思いますけどね。明治から戦前、全くの暗黒の時代というわけでも無いわけですし。本当に歴史の勉強って色々とやってみる必要があると思いますよ。
さて、私が教育勅語や天皇のあり方に、「日本人としては、やっぱり大切にすべきだ」と考えるようになったことがあります。
それはネットかラジオで流れていた話でした。日本は、昔から「お年寄りは大切にしよう」という価値観はあると思います。できているかどうかは別として、これは今もあるでしょう。この話題に関して、ある学校の先生が子どもたちにこんなことを言ったらしいのです。
「お年寄りを大切にしなきゃいけないって話があるけど、田舎のおじいちゃんやおばあちゃんをそんなに大切にする必要はないんだよ。それよりももっと身近にいる周りの友達を大切しないといけません。遠くにいるおじいちゃんはおばあちゃんは、特に何もすぐに力にはなってくれない。でも、隣の友達はすぐに助けてくれる」
こんな話があったそうです。それを聞いて強烈な違和感を覚えました。日本の伝統的な価値観の否定までこの教師は言ってるかどうかわかりませんが、私はそう感じました。教育勅語や天皇の否定まで考えました。そして、「なんてことを教えているんだ?」と思ったのです。
もちろん友達は大切にしないといけないでしょう。でも、おじいちゃん、おばあちゃんも大切にすればいいじゃ無いか。なんてそんなこというのだろう、とも思いました。
天皇の存在をこう感じるようになった
教育勅語、天皇。なぜか忌むすべき存在にしてしまった戦後教育。そうしたい出来事があったのはわかる。でも、この教師の発言への違和感から、こんな風に思うようになったのです。
おじいさん、おばあさんは大切にすべきだろう。そんな遠くにいる人を大切にすることができるからこそ、身近な友達にも優しくできるのでは無いか? 人間的な余裕ってそういうところから出てくるのではないか? 身近なことだけ大切にしてるとするなら、逆に近視眼的で周りに余裕のある行動なんてできないのではないだろうか、そんな風に思うようになりました。
となると、天皇の存在ってどうなのだろう? はっきり言って、私が直接陛下と何か言葉を交わすことなど生涯無いだろうし、褒賞をもらえるようなことも無いでしょうし、まあ、行幸の際に見かけることなどはあるかもしれませんが、日本の一般庶民にとって一番遠い存在というのが天皇陛下だと思うんですよね。
でも、その遠くにいる陛下はどうでしょうか? 陛下からも私たち一般庶民は遠い存在でもあるのですが、何か災害が起こった時に被災地に足を運び、膝を折って庶民と同じ目線で被災者に声をかけられる。そんな姿は、まさに遠い存在の人が一番大変な人たちを気にかけてくれている光景です。こんな為政者は世界中探してもどこにもいないでしょう。
陛下は自分のおじいちゃん、おばあちゃんよりもはるかに遠い存在です。もっとも日本人にとって関わる可能性の無い存在です。でも、その遠い存在を大切にできる心って大切じゃないかなと思うようになったのです。それくらい遠いものを大切にできるからこそ、自分の周りの人を具体性を持って大切にできる。日本の愛国心って、自分の周りの大切な人を守るためにあるもの、優しさを持つための人として余裕だと感じるようになったのです。
そう思うようになって以来、教育勅語も天皇の存在も戦後教育がイメージさせるような負のイメージを払拭するようになりましたね。心を尽くすとはどういうことをいうのか、自分なりに整理できた気がしています。
まあ、それが実践できているかどうかは別ですけどもね。
まとめ
アニメに出てくるこんなセリフがあります。
「本当に大切なものは遠ざけておくものだ」
『コードギアス 反逆のルルーシュ』に出てくる言葉ですが、何か通じるものを感じましたね。
そういえば、小学校の時に卒業制作で学校の心得みたいなものを木で浮き彫りでパネルにしたものを作ったんです。上の学年は確か校歌をそういうもので作ってたと思います。先日、地元のケーブルテレビで母校が映りました。上の学年の校歌の作品は残っていたのに、私たちのは無くなってたんですよね。時代に合わない標語とは思わなかったのですが、なんか悲しい。今回の話題と同じような流れでもあったのかなとか思います。