東京オリンピックエンブレム騒動とポストモダン。物語をなくしたデザインの世界

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デザイン制作

東京オリンピックのエンブレム問題は、日本のデザインの世界がなんとなく胡散臭い雰囲気に包まれてしまう結果となっています。

佐野研二郎氏の作品に対していろいろと話題、問題、疑惑が出ていますが、ここではそれには触れません。ネットのあちこちにまとめがありますからね。

デザインとアートディレクションの違いへの一般人の無理解がこの問題を大きくしているというような意見もあったみたいですが、デザインにはそんなことをくらい突破できるだけの力があって欲しいものです。

デザインに物語としての力が無くなったという感じでしょうか。それとも時代がそうなのでしょうか。

この騒動の中で佐野研二郎氏が博報堂出身ということを知って、佐藤優の著書のこの一節を思い出しました。

ポストモダン以前は、資本主義とか社会主義とか、大きな物語がありました。しかしポストモダンは、社会主義がそんなに素晴らしいものなのかと疑って、小さな差異を見ていくことで大きな物語を批判する。これは大きな物語がまだ生きているうちは有効性がありました。

ところが、社会主義をはじめ、大きな物語がどんどんなくなってしまった。そしたらドゥルーズとかデリダとかフーコーを誰がいちばん熱心に読んでいると思います?電通と博報堂などの宣伝屋さんたちですよ。のっぺりとした世界からいかに小さな差異を見出して、そこに価値を創り出していくか。彼らには職業上、そんな実用性があったわけですね。大きな物語がなくなった後のポストモダンというのは、新自由主義の中に漂流しちゃった観があります。

引用元:佐藤優『いま生きる「資本論」

この一節を読んで感じたのは、ひょっとするとこの問題はこの時代の業界の癖なのかもしれないというものでした。

のっぺりとした世界からいかに小さな差異を見出して、そこに価値を創り出していくか。

デザインの作り方にもそういう価値の軽さをあのエンブレムから感じないわけでも無いです。

ただあのエンブレムには、その小さな差異を生み出せていなかったというのが、今回の騒動から感じることであります。そういう意味では失敗作。

たとえ似ていたとしても、パクリと言わせないだけの力があの作品には無かったということでしょう。世の中にはパクリと指摘される声があっても、それを打ち消すだけの力をもった作品はありますからね。音楽業界などはそうでしょう。

私が佐野さんなら、辞退かな?

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